庭で。
老人の人生など、すでに終わっているが、庭に出ると、まだやることがある。
計画通りに行かない事など自然相手では当たり前だが、計画は大事で、計画があるからこそ環境の変化も逸脱も認識できるワケで、老人は庭でコツコツと小手先のことをしながら作業に埋没し、計画を見直したり反省したり改善したりしている。
古希を迎えて未だやることがあるというのは、なにやら余裕がないように思えるだろうが、もちろんやらなくてもイイようなことだったりするワケだが、低く暮らして低いこころざしで生きるか、低く暮らして高く思うか、人間それぞれだが、自然は寛大なようで冷徹だったりするわけで、隙があったり思い上がりがあれば容赦なく結果を突き付けてくる。ボーっと生きていて庭のフィットネスは保つことはできない。庭のフィットネスは老人の心のフィットネスでもあるんだ。
老境にあっても、高く思い努力することが、至らなかったあの苦渋の時代のリカバリーであり、老人の魂の解放の作業なんだ。極楽は造るものなんだ、造れるものなんだと思う。
一人でする土や植物を相手のことは瞑想に似ているが、決してボーっとしているだけではない。次から次へと出てくる問題に対処しながら、それに追われることが喜びでもあるのだ。あまりにも無限だから傍目にはボーッとしている様に見えるが、尽きぬ問題や作業は、尽きぬ庭仕事の喜びでもあるのだ。 なーんちゃって。