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2015年8月27日 (木)

明治の輸出陶磁器 横浜SATUMAの千顔のデミタスカップ。

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描き出だすや一筆(いっすい)の筆さきに、五百羅漢十六善神、空に楼閣をかまへ、思いを廻廊にめぐらし、三寸の香炉五寸の花瓶に、大和人物漢人物(からじんぶつ)、元禄風の雅なるもあれば、神代様(じんだいやう)うづたかく、武者に鎧(よろひ)のおどしを工夫し、殿上人(でんじやうびと)に装束の模様を選らみ、或は帯書きに華麗をつくす花鳥風月、さては楚(そ)を極むる高山流水、意の趣く処景色とゝのひて、濃淡よそほひなす彩色の妙、砂子打ち(ぼつうち)を樂と見る素人目に、あつと驚嘆さるゝほど、我自身おもしろからず、筆さしおきて屡々(しばしば)なげく斯道(しだう)の衰頽(すいたい)、あはれ薩摩といへば鰹節(かつをぶし)さへ幅のきく世に、さりとは地に落ちたり我が錦襴陶器。

樋口一葉(ひぐちいちよう)は、その著「うもれ木」の中で、明治20年代の東京SATSUMAの状況をこう書いている。一葉の次兄・虎之助は東京SATSUMAの東京絵付けの名人といわれた「奇山」で一時高輪に住んでいた。

さらに、一葉は、

美術奨励の今日うまれ合はせながら、此処東京の地にばかり二百に剰る画工のうち、天晴道(あつぱれみち)の奥を極めて、萬里海外の青眼玉に日本固有の技芸の妙、見せつけくれん腸(はらわた)もつものなく、手に筆は取り習らへど、心は小利小欲のかたまり、美とは何ぞ儲け口か。

と嘆いて、

さればこそ売国の奸商(かんしやう)どもに左右されて、又も値下げ又も値下げと、さらでもの、痩せ腕ねぢられながら、無明の夢まだ覚めもせず、是では合わぬの割仕事に、時間を厭ひ(いとい)費用を減じて、十を以って一に更ふる租画濫筆(そぐわらんぴつ)、

と、このままでは。

今十年と指をらぬ間に、今戸焼の隣に座をしめて、荒もの屋の店先に、砂まみれ成らんも知れた物でなし。

と指摘しているが、まさに東京SATSUMAは明治の三十年代には急速に衰退していく。

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さてさて、いわゆる「横浜SATUMA」の千顔のデミタスカップであります。

明治維新といわれる混迷の時代に、日本各地の諸窯では華麗な陶磁器が盛んに製造され、諸外国に輸出された。主な消費地であった欧州では、それらを「SATSUMA」と総称して嗜好されている。

本薩摩と呼称される薩摩焼の窯地は、主に鹿児島市内多賀山近辺の堅野系といわれる諸窯と、苗代川系といわれる諸窯であった。

 

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「SATSUMA」の前提は、

いわゆる「薩摩焼」とイコールではなく、それらは最初にも触れたが、幕末から明治時代にかけて製造された日本各地の輸出陶磁であった。したがって輸出されなかったり、輸出できなかった遺品を「SATSUMA」と呼称するわけにはいかない。

「SATSUMA」の産地は主流の鹿児島、京都を筆頭に東京・横浜・大阪・神戸と諸外国に開港された都市にあり、後には金沢、美濃も加わった。

           引用 幕末明治の薩摩(SATSUMA)焼 大森一夫著

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本品の横浜「SATSUMA」の発祥は、明治3年ころ京都の宮川香山が横浜南大田の富士見台下に窯を開設した事によるが、明治8年ころ本町通りに店を構え相生通りに工房を開設した井村商店は明治10年代には職工200余名を擁し外国人の好みの意匠を取り入れた陶磁器で大いに繁盛したという。ほかにも中村屋や鎮導商店などが店を構え明治18年ころにはおよそ400名だった製陶関係者は明治25年ころには600名に増加した。

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カップはいわゆるエッグシェルと呼ばれる、極めて薄いボディで輸入された磁器に絵付けされた物で更に欧米へ輸出された。

横浜SATUMA 中村屋 明治中期

と、今回は、過去のブログの焼き直しで恐縮。

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コメント

ずっとずっと前にコメントしたものです。
あれから近代輸出陶磁器に魅せられてというブログをはじめました、、がお休み中です。
横浜SATSUMA、、今まで私も欧米に輸出されたものと思っていましたが、支那など東南アジアにも輸出していたようです。当時の資料を調べていましたら、日本で出版された本と少し違うように思います。樋口一葉のお話、とても興味深いです。当時は陶画協会もあり 宮川香山 井村彦次郎、田代市郎治、岡倉天心など 色々研究していたようですが、、東京にあった起立工商、瓢池園も無くなってしまいました。価格競争、、今の時代も同じかもしれませんね。

投稿: ももこ | 2016年2月15日 (月) 21時19分

ももこ様
お久しぶりです。ももこさんがお持ちの、たしか忠臣蔵?の武者絵のカップを岐阜の多治見のギャラリーで一昨年見ました。確か美濃焼きの歴史を紹介する催しだったのですが、詳しいことが聞けなかったのが残念です。

投稿: IWANA | 2016年2月15日 (月) 23時10分

IWANA様

岐阜の多治見のギャラリーで催しがあったこと、、知りませんでした。
私の持っているものではないかもしれません。
忠臣蔵の物語の作品は多く輸出したのではないかと思います。

投稿: ももこ | 2016年2月26日 (金) 16時58分

ももこ様
輸出品の紹介でしたが、多治見の物のような展示だったのですが、説明できる方がいなかったのが残念です。

投稿: IWANA | 2016年2月26日 (金) 21時04分

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