谷汲山にて結願する。
岐阜の谷汲山(たにぐみさん)にある華厳寺(:けごんじ)は、西国三十三ヶ所めぐりの満願霊場で、巡礼の満願・結願の地。
ゴールデンウィーク二日目の昨日は、谷汲山へお参りに行ってきた。
近畿一円に広がる西国霊場巡礼の、満願の地だけが近畿以外の美濃にあるというのが不思議だが都を中心に、当時の感覚でとらへれば、都のハズレの、往くには覚悟が必要な距離であり、しかし行けないワケではないという距離感が、霊的なもの、巡礼の最終到達地点というにふさわしい神秘性を持っていたのではないかと、シロートのオイラが言うのもナニだから、興味がある方は検索していただくとして、岐阜の西濃といわれる大垣などこの地方は今でも、関西弁の影響を感じさせる地方で私鉄は近鉄系列だったりする。
さてさて、どうしてオイラが、この時期、谷汲山なのかというと、オイラの人生もアップダウンの激しい巡礼のようであったなと、「労働者」を終了するにあたっての:満願の“お礼まいり”という位置づけなのだ。
満願というほど目出度くもないし、これで結願というほど夢が小さかったワケでもない。大きな幟に名前を染めて大金を寄付するほどの定期預金が残ったわけでもないのは、少し恥ずかしい。
しかし、このところ、いろいろあって、どこかへお参りして、いつものお参りより、少し多めのお賽銭を投げてきたい気分だったのだ。
今度も、予期せぬ病気で、パソコンの強制終了みたいなことになったけれど、悲劇が本当の悲劇の少し前でとどまり、しかし更に悲劇も起きたけれど、それも決定的な悲劇の手前でユーターンすることが出来た。
こうなると、悲劇だったけれど、“幸運だった”と、思わざるを得ないワケで、神様とホトケサマだけには、お礼を言っておきたいと思った今日この頃なのだ。
家内が「お賽銭いくら投げた?いつもと同じではイカンよ!」って言うから家内はいくらかなって見ていたけれど、いつもどうり百円だったような。わたしは、ちゃんとしておきましたよ。
でも、お金じゃないよね、ありがとうございました、というココロだよね。
そして、すべての人の願いが叶いますように。
かくなるうえは、死ぬまで元気でいられますように。
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