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2007年3月 1日 (木)

十五の春 岐阜・梅林公園の思い出

Bairin_005_1 母さん、今年も、梅林公園の梅がいっぱい咲きました。

今年は、暖冬で、すでに満開です。

でも、あの日はとても寒い日でしたね。学校へ行くあぜ道が霜で白かったのを覚えています。IWANA 十五の春の、岐阜の県立高校の合格発表の日です。

前日に宗宮君が夜中に尋ねてきて不合格だったと親戚の人から聞いたと。IWANAと、ほぼ同じ成績だった彼も、ワンランクレベルを落として臨んだ高校だけれど。しょげかえる彼を慰めながら、彼は後半遊んだからな・・と思いつつ、自分まではとは信じられなかったのです。でも困った事に、実はスベリ止めの私立の受験は、担任がお金の無駄だと言って受け付けてもらっていなかったのです。

Bairin_002 爆発しそうな不安と、あきらめきれない希望を抱いて、母と向かった高校にIWANAの番号は有りませんでした。合格発表の最後に、便箋で、以下の者は下記の高校へ発表を見に行くようにと書かれていました。ようやくそこに自分の番号がありました。

行った事の無い街の、見たことも無い高校へ、発表を見に行くことになりました。どこをどう行ったのか記憶はありません。

二次志望という事で下位の高校に救われました。高校受験などというのは、模擬試験の成績で予め振り分けられる為、そんなに番狂わせがあるはずもないのに、どうした事かIWANAの中学から受けた18人の内12人が落ちてしまったのです。

母親とは、合格祝いはテニスラケットという約束でした。中学では演劇に夢中で、母親からは、高校では演劇はダメと言われていたのです。理科がとても好きだったIWANAは密かに医学部を目指していました。高校ではテニス、そして医学部と夢を描いていました。

Bairin_003_2 

岐阜から電車で30分もかかる田舎の高校を見て岐阜へ帰ると、母は梅林公園へ行こうと言い出しました。誰とも会いたくない気持ちですが、母親への負い目から梅林公園へ付き合いました。母親は「植東」の田楽を食べさせてくれました。当時の我が家の状況で言えば嵐山の吉兆でランチをするようなものです。母は何もIWANAを責めないけれど、教育者あがりの母親の落ち込みは痛々しい程です。IWANAは、必死で馬鹿を言いながら、心配するな大学受験では絶対リベンジするからと・・・。でも、そんな自信など何処にもなく、心の中はグシャグシャでした。

帰りに母は、柳ケ瀬でテニスのラケットを買ってやると言ってききません。不合格だったし、もうテニスどころでは無いよといっても、無理やり押し付けられました。欲しかったテニスラケットも虚ろな気分で持って帰りました。

あれほど好きだった理科が全く解らない教科になり、もちろん医学部など想像だに出来ず、校章を隠す様に帽子を被る劣等感に苛まれながらの三年間だったけれど、田舎の高校は、いい奴ばかりで、全くやる気の無い教師も居たけれど、とても良い先生も居て、あの苦しかった三年間はとても充実した三年間だったと思います。

母さん、「植東」の豆腐田楽はIWANAの出発点だと思うのです。十五の春に一番悲しかったのは僕ですよ、でも僕より悲しんでくれた母さんがいたから僕は頑張れました。

Bairin_001_1 あの日の豆腐田楽は、消しゴムの様で、景色は白黒だったけれど、今日の梅林公園は、淡く上品な色に溢れて、豆腐田楽も芋田楽も柔らかく美味しかったです。

母さん、天国で梅は咲いていますか?

豆腐田楽は有りますか?

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